国土・気候の様子

 パナマ共和国は北米大陸と南米大陸のくびれたところにある国で、縦長だと思いきや、横長のS字に似た形をしています。そのS字の真ん中に世界的に有名なパナマ運河があります。(誰だ?スエズ運河の方が有名だなんて言ってるのは) 

『太平洋と大西洋を結ぶ運河』というと非常にかっこいいのですが、実際の運河は信濃川や阿賀野川などと比べ物にならないほど狭く、中之口村の用水が2本並んでいるという感じです。(ローカルな川です)でも、世界中の船のほとんどがパナマ運河を通れるように幅を制限して造っているという事実を知ると「なかなかあなどれないぞ。」と見直したりします。

 国土面積は約77・で北海道よりやや小さく、人口は約230万人。

「パナマ」はクエーバ族の言葉で「魚の豊富なところ」を意味するそうですが、パナマの人が食べる魚はコルビナというスズキの一種かパルゴという鯛に似た魚くらいです。

 日本人は魚が好きなので結構いろんな魚を市場で探して来ては食べているようですが、今一つ熱帯の魚は、なんかだらっとしていておいしくありません。

 気候は亜熱帯性気候で、一年中高温、高湿度のため不快指数は中南米で最悪の国の一つであると言われています。日本人は当然ですが、ペルー人やコスタリカ人が「パナマは暑くて嫌いだ。」と言ってます。私は雪が降らなくて一年中半袖でいられるのでパナマは大好きなのですが・・・

 日本のように四季の変化がなく、乾季(1〜3月)と雨季(4月〜12月)に分かれています。残念なのは、亜熱帯と言ってもほとんど熱帯雨林気候に近いため、乾季が非常に短いことです。パナマ人は乾季を夏、雨季を冬と呼んで、夏がくると喜び、冬になるのを悲しみます。

 乾季は全く雨の降らない日が何日も続き、日なたにいるとじりじり、くらくらします。それでも道端には物売りのお兄さんが一日中立っています。

 雨季は平均気温が26℃、湿度は90%を越え、衣服、食品はもちろんのこと、割り箸、カバン、カメラのレンズ、ビデオテープ、身体にもカビが生えます。おかしいのは、雨季になると、26℃もあるのに「お〜っ寒い。」とか言って、長袖のジャケットを着たり(主人もそうなんです)、赤ちゃんに毛糸の帽子をかぶせたりすることです。

 雨季の間は毎日1回、ちょうど子供の下校時間になるとスコールが降ります。その時は傘は役に立たず、自動車を運転中なら前方が見えず、街路いたるところで水があふれ出すため、びしょ濡れになってもあきらめるしかありません。雷の音のすごさは「空が割れる」という表現がぴったりです。

 人種・治安 

 パナマには色々な肌の色、体つき、顔つきの人達がいます。

パナマはもともと原住民(インディオとかインディヘナと呼んでいる)が住んでいたところにスペイン人が奴隷などを連れて征服者として来て以来、色々な人種が混じり合うことになりました。

 現在の人種構成は混血(白人とインディヘナ、白人と黒人の混血)61%、黒人13%、白人(スペイン系が多い)11%、インディヘナ10%、中国人やインド人などの東洋人5%となっています。  

 米軍基地(1999年にパナマに返還予定)があるため、白人を見るとアメリカ人だと思っていましたが、軍隊がどんどん引き上げているのでアメリカ人はそう多くないようです。

 我が家の住んでいるアパートにはユダヤ人(白人)がたくさん住んでいて、こちらから挨拶しても無視されることがよくあります。ユダヤ人は土曜日になると頭にカッパの皿のような帽子をチョコンと乗せて教会に行きます。信心深い人達で、「ユダヤ人のスーパーで売っている鳥肉がおいしいのはなぜか?」という問いに「お祈りしてあるからだ。」と答える冗談があるくらいです。ユダヤ人はユダヤ人以外の人、金持ち以外の人にはあまり優しくないと言われています。(これは一種の偏見なのでしょうが。)

 パナマ人は外見だけでも実に様々です。スラッとしてモデルのような人もいれば、お尻が大きくて「どこであんなジーンズ売ってるの?」と聞きたくなる人もいます。肌の色も混血の割合によって色々です。パナマ人の感覚では、「胸とお尻が大きいほど、肌の色は白いほど美人。」らしく、胸とお尻以外の部分がどんなに太っていてもぴったりした服で体の線を強調し、少し白めのファンデーションでお化粧します。

 パナマ人の全体的な印象はのんびりしていていい加減だが憎めない。と言ったところでしょうか。

 ある日、レストランに行った時のこと、念を押して注文したにもかかわらず、やっぱり間違った料理を持って来たウエイターに「これは〇〇じゃない。△△だろう。」と言うと、「いや、〇〇だ。」と言い張ります。そこで、主人が調理場まで行って確かめ、「やっぱり△△だ。お前、間違っただろ!」と言うと、自分の責任では無いようなことをあれこれ言い訳します。それでも主人が怒った顔をしていると、「さっきのコーラはタダにしておくからさ。」などとにこにこしながら言い始めるのです。

 この一件がパナマ人の性格を如実に表していると言ってよいと思います。 

いろいろな国の人々

 この頃急に増えているのはコロンビア人です。新聞には1年間に約500人とありましたが、国境を越えて不法入国してくる者もいるそうです。
運転手さんは、「今、建設中の新しいビルは、コロンビア人が麻薬マネーをきれいにするため(ロンダリング)だ。」と話してくれましたが、同じことを何度もいろいろな人から聞いています。そういえば校長先生の住んでいるビルもコロンビア人の持ち物ですが麻薬マネーで建てたのかは??です。
コロンビア人のご主人を持つ奥様の話によると、コロンビア人は怒らせるとすごく怖くて、執念深いということです。(ご主人はとても優しいと評判の方です。念のため)怒らせないようにしようと思いますが、外見では誰がコロンビア人なのか分かりません。

 東洋人では中国人が多く、セントロ地区には中国人の経営する店がたくさんあります。
新市街にも大きな中華料理店、ファーストフードのチェーン店、電気製品の部品を扱った店、八百屋、魚屋、などがあります。ずーっとパナマに住み、パナマの中国人同士で結婚し、子供をパナマで育てるところは、3〜5年の期限付きで派遣されてくる日本人と違うところです。
中国人マフィアというやくざな組織があるらしく、中国人を誘拐しては身代金を取っているそうです。中国人は家族が誘拐されたとき、決して警察に届けず、親族が集まってお金を出し合って解決しようとするので、新聞に「中国人は警察に届けないから事件が闇の中に葬られてしまう。」とのパナマの警察のコメントが載っていました。

 韓国人ははっきり言って経済成長期の日本のセールスマンそっくりです。海外に派遣されているのは各企業のエリートで、少しでも韓国製品の売上を伸ばすために頑張っています。電気製品と自動車関係が多く、たいていヒュンダイ(現代)というメーカーの車に乗っています。奥さんはブランド品のバッグを持って買い物をしています。ゴルフ場で会うのは日本人か韓国人で、中国人はゴルフはしないと言われていますが本当かどうかは???です。

中国人と韓国人と日本人。見かけはそっくりなのに話す言葉や文字が違うので、仲間意識が今一つ芽生えにくい感じがします。全体的な印象は、中国人は身なりをあまり気にせず商売上手で愛想の良い下町のおばちゃんと言う感じ。韓国人は服装も化粧もけっこう派手めでがんばってるんだけどちょっと野暮ったい女子大生。日本人は服装はラフで、どこへ行くにも団体行動できゃあきゃあの女子高生。と言う感じでしょうか。

 インド人も結構多くアジアの織物などを扱った大きな店を経営しています。山の上には立派なヒンズー教の寺院があります。去年の事ですがインド人の不法入国者たちを探して逮捕する事件があり、日本人は身分証明書を肌身離さず持って歩くようにと連絡を受けたことがありました。(どう見ても私はインド人には見えないと思うけど・・)

パナマ在住の日本人は現在480人ほどです。海外にいながら日本より古風な日本人社会が存在しています。日本人学校の児童生徒数は小中合わせて50名ほど。日本では信じられないことですが、
中学生の男の子が小学生の低学年の子をおんぶしてあげたり、遊び相手になってあげています。気持ちの優しい子が多く、いじめも非行もありません。生徒指導上の問題が無いので中学校の先生は「学習指導に専念できて嬉しい。」と言っています。
ただ治安が悪いので子供だけで外で遊べないのがかわいそうです。

歴史

 パナマは1502年にコロンブスがパナマのカリブ海側の沿岸を探検し植民を初めて以来、スペイン人の中南米を植民地にするための拠点になりました。

 スペイン人たちのねらいは金や銀、そしてコショウ、染料など。それらを手に入れる最も手っ取り早い方法は、先住民(インディオ)から奪うことでした。

「副指揮官を志す者がまず最初に精通したのは首長とインディオを残忍に取り扱い、彼らを捕らえて黄金を手に入れることで・・・・彼らに奉仕したり黄金を差し出そうとやって来た者達を拘禁して、もっと出せと拷問した。」(『スペイン植民地下のパナマ』より)

 スペイン人たちはインディオを殺して土地や財宝を奪うことと、アフリカから黒人奴隷を連れて来て農業、金の採掘、真珠採りなどをすることで儲けるだけ儲けて3年ほどで交代したといいます。

 スペイン人女性は少なく、毎年何千人という数の黒人奴隷が連れてこられたことによって、どんどん混血が進み、スペイン人の血が半分か、三分の一か、四分の一か・・と言うことで階級制度が作られて行きました。

 今でも肌の色が白いほうが良いと思われているのはそれが原因なのかも知れません。

 その後、パナマは、ペルーの鉱山から出る金銀宝石を一時集めておいて、スペイン本国及びヨーロッパ諸国へ向けて積み出す通行路としての役割を果たすようになりました。

それが現在のパナマの姿に続いています。

 金銀の集まる場所としてのパナマは海賊にとっても魅力的な場所だったらしく、何度となく海賊の襲撃を受けています。17世紀には有名なヘンリー・モーガンが『黄金の町』といわれたポルトベーロ町やパナマ市を一夜にして壊滅し尽くしたうえ、「金銀宝石を165頭のラバに積み込み、600人の捕虜を連れて帰国した」(『ス・・』より)ということです。この残虐な海賊は、パナマを襲ったのを最後に、騎士の称号を貰い、ジャマイカの副総督になって死ぬまで幸せに暮らしたというのはどう考えても頭に来ます。その頃の町の様子がわずかに残されているのが今の『パナマビエホ』です。町の遺跡はどんどん崩れて行く一方で、壁が倒れないように材木などでつかえ棒などしていますが、お金が無いのか技術がないのか、修復工事は遅々として進んでいません。

パナマ運河とレセップス

 パナマというと真っ先に思い浮かべる(あるいはそれしか無い)のがパナマ運河ですが、よくスエズ運河とごちゃまぜになってしまう人もいるようです。(スエズ運河はアラビア半島とアフリカ大陸の間に造った運河です。地図帳を見よ。)けれども、全く関係が無い訳ではなく、スエズ運河とパナマ運河はフランス人のレセップスという一人の人物によって繋がっています。レセップスは1869年にスエズ運河を完成し、第二のスエズ運河をパナマにも建設しようとした人物なのです。

 1879年の国際両洋運河大会でパナマ運河をどうやって造るか、三つの案が検討されました。

・ 太平洋とカリブ海を一本の水路で結ぶ海面式運河。(スエズ運河と同じ。)

・ 20の水門を作る水門式運河。

・ 人造湖を作って水の階段を上り下りする、後の閘門式運河。(当時は全く相手にされなかった。)

 この三つのうち、最終的に選ばれたのは海面式運河で、これがそもそもの間違い。山の多いパナマ地峡を一直線に掘り進むことは無理だったのでした。

 レセップスは自分の経験を生かそうと、運河建設の権利を買収。1880年にパナマのコロン市に到着します。このとき、不吉なことにレセップスの乗った船が強風のために岸に着くことができず、焦ったレセップスは船の中で強引に鍬入れをしました。

 1881年には『万国国際両洋運河会社』を設立し、運河建設に取り掛かります。

けれども、レセップス本人はパリにいたまま資金集めにかかりきり。遠く離れたパナマ現地ではさまざまな問題が起こっていました。

 無理な工事の事故。乾季の日射病、熱射病。雨季の大雨による土砂崩れ、川の氾濫。衛生状態の悪さから来る天然痘、腸チブス、赤痢、コレラなどの伝染病。ジャングルに住む毒蛇、毒虫。そして、最もひどかったのが黄熱病やマラリアでした。

 工事開始後、4〜5年で、事故や病気のために22000人以上の労働者が死に、金銭面でも大手建設会社が撤退したり、資金集めに失敗したりして、どうにもならない状態に追い込まれていました。結局、このまま海面式で運河を作るのは無理ということを認め、レセップスのパナマ運河建設は失敗しました。

 1889年『万国国際両洋運河会社』は倒産。

 1892年レセップスは詐欺と贈賄の容疑で逮捕されます。そして三年後、89歳の生涯を閉じたのでした。

パナマってどんなところ?